何が正しいか、何が間違いかもう分からない。
一杯しようとしているが、出来るものが少ない?
何が変化か、何が本質かもうどうでもいい。
自分の信じていたものは、本当にずっと信じていいのか?
人は諦めて成長するのね?
妥協して大人になるのか。
成長とは何でしょ? 社会の波に飲み込まれて、身動きが出来ない上に、角など取られて丸くなることか。
それなら、私はもう経験したし、なったと思う。
けど、いやだね。やっぱり角が欲しいよ、スパイシーな自分が居て欲しい。
私は自分が出来るか、出来ないかさえ分からなくなった。
自信をなくして、取り戻そうとしている自分がなぜか馬鹿馬鹿しく思えた。
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「僕は本来の僕だ」という言い方が好きだ。
今の哀れの状態は本当にそう言えるのか?
なにも求めなくなった。
本当にそれでいいのか?
疑問がまだいっぱい。
しかし問いかける気力さえなくなった。
人間は変わるものだ、と信じていたが、
こんなに変わる事が出来るのは想像もつかなかった。
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本当に、人間が変わると(考え方だけでも)、その人に対しての幸せが変わってしまうのね。
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私は出口を探している。
自分に型を嵌めようとしている。
そしたら文系が旨く学べる気がしてたから。
しかし、そうするほど、
「別にいつでも、どっちでもいい」自分が目立ってくる。
「弱気はダメだ」と思うけど、余計弱気になる。
気持ちに執拗としてもどうしようもない。
それに、人の気持ちはいつでも変わるものだ。人は「弱い」のだ。
この理屈は以前の僕だったら、
はっきり知っているはずだ。
僕は事実前提の中で生きてきた。
僕も「唯心」主義者。
ただ、僕の唯心は「各人は自分の思惑の中で生きている」と
「人を大事にする事が何よりも重要なこと」に限定する。
僕は「唯心」と言いながら、やっぱり事実を一番重視していた。
だから、日本人の「全てが気持ちだ」のような言い方に違和感を覚えていた。
っていうか、大嫌いだ。
影響されないように、心に壁を築いていた。
怪我してから、自分が気づいていないが、
考えるとそうなっていた。
体が弱い時に免疫力が下がると同じだなぁと考えた。w
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そうそう、型に嵌めようという話だった。
……
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それより、信仰の話をしよう。
人が弱いし、しょっちゅう変わるから、信仰が無いと立場が危ない。
私も信仰を持つようになった。
怪我しなければ、持たなかったと思う。
強くはないが、強くなると思う。
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それこそ、一番いい「型」だ。
一番の理由は、「型」に嵌められたら、考えはそこら辺硬くなるはず。
硬くなってもいい所は、自分の「弱さ」だ。
(「弱さ」=「人間らしさ」だけど、まあいいや諦めても
(何かをなくして、何かを得ているのだから。
「兪子豊はどういう人?」
と聞かれたら言われたいこと。
「アイツは自分の考えるまま実行している!」
「バランスが取れているね。」
「アイツは強い、叶わへん~!目立たへんがセンスあるんや」
「ライバルにしたいよ。」
「鋭い!本質を見分けて、言うべき事だけを言うし。賢いより賢明だと言うべき」
「細いけど、健康で丈夫だ。筋肉質だね。」
「日本語はすごく上手、発音は日本人並。」
「問題の認識が深い。彼と組めばね~」
このための信仰かな?w