2008年3月23日日曜日

お母さんに対する感情 お母さんの気持

今日は嬉しかった。
とりあえずは嬉しかった。

北川お母さんが悩み(悩みとは言えないけど、ただ甘えただけかも)の相談に乗ってもらった。
僕の紹介で入って一年間住んでた人と僕より親しい→
感じであったことをすごく不公平に思ってしまったわけであった。

こころざしが違うから、意思決定の仕方も違うし、判断の基準も違うので、
もともと実際その人と住む世界が違うので、友達になれないはずですが、
たまたま一人で生活したいと僕に言ってきて、しかも寮の申込期間が過ぎたと言って、
お母さんのアパートに空き部屋があって、空いてるともったいないし、
お母さんを手伝いできることをいつも期待しているから、紹介したわけであった。

彼は僕の友達だ。
しかし、そんなに知っていない友達だった。
彼は僕の同級生と大学の同じ学科の同じコースに入ったことで、僕と知り合ったわけだ。
何回かパソコンのトラブルの相談に乗って、彼と「友達」になった。
彼にはすぐに知らない人に馴染みつく一種の魔力があるか知らんが、僕ともその時に親しくなって。
しかし、全然付き合う人が違うし、彼の友達とどうしても懐きできない部分が僕の中に会って、
一旦、その輪の中に入ってしまうと、僕もそのようになる気がするから。
友達だけど、彼の友達を僕は知っていない。

そして今日、お母さんに相談したら、困った顔をしてたわ。
「ゆーさんを差別するなんて全然思ってないよ」とお母さんが言った。
「拒絶になったの?」って聞いていた。

「_さんはパソコンのことを助けてくれたのは一度もなかった」
「年賀状のとき、何度か_さんに助けてほしい時があっても、寝ているか、話し中であるか、すごく頼みにくい」
「いつも何をやっているかも知らずに、『ゆーさん』と呼んで頼んでいるから、今考えると申し訳ないと思う」
「今でも、ゆーさんを呼ぶほうが多いぐらいよ」
「ゆーさんなら一度でできるけど、他の人に頼んで2、3回やってやっとできる」
「_さんも心配していたよ、一緒に泣いていたし、何回か部屋出る時に泣きながら出てきた」
「トトちゃんのお世話を一緒にやったよ」
「今から_さんもゆーさんのことを気にするじゃないかな」
「_さんが無遠慮とは思わない。あの人も遠慮するよ。いいですって」
「押し付けと感じて、心配な時もあるが、_さんも結構押しつけられたと思うが」

「表面的に_さんを知っているけど、本質までは…、ゆーさんのことなら、考えればわかると思う」
「お見舞いに行く大切さは、入院の経験があって初めて分かってくるので、これからは他の人が入院するときに、お見舞いに行ってね」
「ゆーさんが入る前に私がそんなにアパートの方に行かなかったよ。差し入れも入れなかったよ。」
「18歳に家のアパートに入ったゆーさんのことが気になって、私が守らなきゃと思って、それからはアパートへ行くようになった。」
「これからはどうなっていくのか分からない。留学生はいるが、皆が大学院生になって。_さんも4年生になってから入ったでしょう?」
「私はできる範囲のことをやっただけで、皆が楽しく過ごせばいいわけだ」
「東京に行ったら、私が連絡しようとしても、相手が連絡してくれないと続かないから、やっぱり相手を見てやるしかない」
「_さんはマメなので、メールも即返事するから、それでコミュニケーションが取れたよね」
「私は甘えられる方がうれしいよ。_さんが2回も薬を頼みに来てくれたが、この間ゆーさんも膝をけがしたじゃない?血だらけでも、頼みに来ないのが悲しかったよ。そして薬を持って行ったんじゃない?」
「たくさんメールをすることが迷惑と思う人もいるが、私は嬉しく思うよ」


「いやな思いをさせて、ごめんなさいね」

結局このメールを送ってくれた。
「張さんとゆーさんしか私をお母さんと呼んでくれません _さんも大家の北川さんとしてしか受け止めて頂けない関係の侭お別れになります 大事な大事なゆーさんですよ 遠慮しないでどんどん甘えて下さい又名古屋に来て泊まって下さい _さんとの関係も私が壊してしまったとしたら最悪です 仲良しでいてください 私の最後のお願いです」

お母さんのせいではないですよ。泣きたいです。

本当にこんなに優しいお母さんに恵まれて、幸せだよね。
他の人にも優しくしたら、僕が焼きもちを焼くのは当たり前に思うが、
やはり子供ですね。いろんな意味で

お母さん、僕は大人じゃなくて、切ない思いをさせてごめんなさい!
お母さんが僕のことを大事にしてくれていても、気づかない僕の鈍さに自分でも唖然だったね。

お母さんの気持ちを理解して、もっと嬉しくさせられなかった自分が大バカだ!
何で、言われるまで気づかなかったのか?やはり遠慮すると、気づかないのかな?
何でもっと早く聞こうとしなかっただろう?自分のことに夢中しすぎたのか?それとも、聞いたら失礼と思ったのか?

そんなに僕のことを大事にしてくれたのに、今まで気づいていなかった。
たぶん今度の怪我がなければ、こう聞こうとしなかったのだ。
お母さんに感謝している。感謝という単語があらわせないくらいありがたく思う。
お母さん知っているか?お母さんの信頼がなければ、今の私はなかったと思う。
お母さんが僕の1年生の時に、信じてくれたことは心に残って、この一生の宝ものだ。
他の人の信頼を勝ち取る努力はするようになったのは、その後だ。

これからも、どんどん呼んでください! 「ゆーさん」ってね。

2008年3月12日水曜日

卒論の謝辞

この 1年間、卒業研究を行うにあたり多くの人のご協力を頂きました。 特に、10月中旬に交通事故にあいまして、研究室のみんなを始め、工学部の先生たち、留学生関係の先生たち、領事館の方たち、留学生学友会の皆さん、留学生の友達たち、日本人の友達たち、大家さん、社会活動(インターンシップなど)で知り合った方たち、病院の先生たち、看護婦さんたちに助けていただいて、この命を取り留めて、何とか卒業出来るようにできて、本当にありがとうございます!この命は皆さんあっての命です、一生感謝しています。

指導教官である美宅成樹教授には研究について詳細まで教えて頂いたことをはじめとして、人生の座標を私に与えたといっても過言ではなかろう。抽象化の大切さ、自分の歴史観、悩みがあるときに前向きに悩もう、人生は夢だといった考え方が私一生に資するだろう。こんなに素晴らしい先生と出会えて、それも指導教官になられたなんて、この人生に幸運だと思います。ありがとうございます!以前、授業を受けた時美宅先生がやさしい方だと思って留まったが、やはり、今度の事故によって、与えられたチャンスだと思うが、本当に素晴らしい方だと認識できてよかったです。しかも、脳損傷の経験から私のことを考えてくださって、お忙しいのに助言と両親の説得に力を尽くしてくださいました。もっと話し合ったら、私のことを一番わかってくれる人だと思いました。美宅教授は私の人生で忘れることのできない方となりました。ご指導いただき御礼申し上げます。

園山正史准教授、横山泰範助教、博士研究員の柯閏聡氏は私が入院する間病院に何度も足を運んで、私を心配して病院の先生に私の体調を聞いてくださいました。卒業出来るように、病院に外出を申し込んで、私を3ヶ月間別れた研究室に車で連れて戻りました。卒業研究発表直前に、私たち 4 年生の発表練習のために貴重なお時間を割いて頂き、適確なアドバイスをして頂きました。園山先生は私が単位無事にとれたと聞いたとたん、とてもうれしくて、何度も「すごい!」とおっしゃいました。後で、私のパソコンの画面で確認したとき、「すごい、これは第三の奇跡だ」とおっしゃって、私はとても感動で、泣きそうでした。 博士号取得したばかりの崎山則征氏は、お忙しいのに、知識の乏しい私が悩んでいる際、貴重なお時間を割いていただき詳細な部分までご指導頂きました。改めて御礼申し上げます。博士課程2年の根岸瑠美氏と秘書の桝谷亜希子氏二人は、病院に何度も見舞いに来て、桝谷さんが題目を見ても大好きな本を何冊も持ってきて、根岸先輩が葉書を書いてくださいました。本当に本心から書いていた話なので、読んでいるうちに思わず笑ったり、泣いたりしました。私の早い回復に皆さんの支えがあって初めてできたのです。

また、博士課程3年の澤田隆介氏、修士課程2年の三谷優貴氏、特に技術補佐員の朝川直行氏には卒業研究の最後まで丁寧にご指導頂き発表と論文にとても実用的な助言をしてくださいました。博士課程3年の谷澤英樹氏には Perlを用いたプログラミングの知識をご指導頂きました。博士研究員のガンガ氏は自身の経験を打ち明け、慰めてくださって、そのおかげで私は安心できました。修士課程1年の成重太助氏には、とても温かいご相談、話し合いをしていただきました。博士課程1年の山田達矢氏には研究について質問しやすくて、わかりやすく説明していただきまして、以外にも興味深い話を多く聞かせて頂きまして、根岸先輩と研究生活にかけがえのない存在でした。修士課程2年の小糸直希氏、榊原忠明氏に私の職業指導授業の単位の取得に大きな力を注いでいただきまして、発表のための準備をしている際、親身になってアドバイスを提供して頂きました。その他にもいろいろな生活面、研究面の助言と励ましをいただいて本当にありがとうございます!

お世話になった方々に改めて御礼申し上げます。

また、同輩である4年の辻信弥君、東陽介君、杉本一晃君とは悩んでいるとき辛いときに励ましあい、嬉しいことがあったときには皆で喜び合い、かけがえのない存在でありました。これから就職する方、進学する方と道は別々となりますが皆さんのご活躍をお祈りいたします。

最後、両親にささげたい言葉があります。心配させてごめんなさい。両親が無ければ色んな意味で今の私がいないだろう。学ぶべきことが多かった4年間の日本での大学生活を最後まで支えて頂いて感謝します。

2008年3月2日日曜日

美宅先生へ【東京に行くことについて】

「押し切って、東京に行ったら、“可哀そう、気の毒だな”と思う」とおっしゃった。

その話をずっと頭の中で考えた。
その話を理解しようと必死だった。

慶応をあきらめたほうがいいか?
中国に帰ったほうがいいか?

考えられなくもないんだが、けれどいろいろな要素を考えると、やっぱり行きたいと思った。

なぜ私が東京にやはり行くと、気の毒に思うかを考えた。
先生に “悪いことをいいことにする” とおっしゃった。


それは、たぶん 私が能力的に出来ないにもかかわらず、
前に立てたプランを変えたくないだろうと、ご推測したのだろう。
そして、失敗したときに、怪我のせいにするかも知れない。で、こう考える様になる。
「僕はなぜ怪我をしたのか?怪我をしなければ良かった。」

そのような罠にはめられたら、僕自身も可哀そうに思う。


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けれども、人間は自分を変える能力を持っている優れた生き物だ。

先生の話で、こんなこともあるのか、と私が注意をかけられた。

確かに、そう思うかもしれない。けれども、私はそれほど能力が落ちていない。
人間には2%の脳細胞しか使っていない。
人間には自己修復の能力を持っている。
この前のテレビ番組で、リハビリによって、運動能力が結構回復できることを説明した。
たぶん運動能力だけじゃなく、思考能力も、判断能力も、記憶力も、洞察力もそうだ。

そして、そんな風に考えたら、先生の話が思い出すから、
当時、自分の必死に考えた挙句、下した決断だから、後悔しないと思うし、
罠にはめられないと思う。

心理学の本を読むと、自分を受け入れることが一番大切であることがわかった。
事故った僕も僕だから、受け入れなければならない。
それを受け止めて、最善のために努力しなければいけません。

この一ヶ月間の学校生活、美宅先生、ありがとうございます!
先生がいらっしゃったからこそ、この一ヶ月間の学校生活ができた。

この一ヶ月間の生活で、自信が沢山ついてきた。
東京に行っても、大丈夫に思った。
先生のおかげです。

しかも、記憶にない事故のことも、良い面を考えることになった。

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私はすごく幸運だと思う。
運命が私に「成功してこい!」と言っているようだ。

周りの人たち、私を心配して、将来を考えるあなた、ありがとうございます!!

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事故で、いろいろ前に気づいていないことを気づいていた。

私が必ずしも覚えていることが正しくないこと。
私がやっていることが必ずしも正しくないこと。

人間関係は、正しいことを強調するではなく、相手を信じて支持することが重要であること。
人間に一番重要な素質は「考えを変える」ことで、すなわち「どうやって物事を捉えるか」をコントロールこと。

思い込みがいけない。相手が僕を好むと設定する状態で付き合ったら、相手に迷惑をかけるかもしれない。
人間には他人の手助けが必ず必要であること。なぜSocietyにいるかを考えたらわかる。
助け合いしなければ、社会が成り立たないし、人間って、見た目が強くても、弱い生き物だ。

確かに書くことは、「忘れてもいい」と考えたかもしれない。
しかし、こんな経験がないでしょうか?
「忘れてもいい」と考えて、書いたら、書かないよりちゃんと覚えている。
「書かなくてもいいのだ」と思ってしまう。

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事故があったおかげで、両親との距離を縮めることができた。

もともとは両親とギクシャクしてたんだ。
お父さんには、僕は小さい頃の経験から、批判といやな思い、そしてお父さんが自己表現欲とコントロール欲が強すぎること、家族に自分のことを話さないことを格好いいと思う面があって、
お母さんには、心配しすぎることと自信がないことと何でも一人で我慢することがあって、
お母さんは、お父さんにいつも叱られるし、お父さんは、お母さんが依頼しすぎたと思って、両親の間で問題がもっと大きい。
いつも両親と仲良くみんなで楽しく過ごすことができないけど、まあある意味、日本に来る時点で、ほっとした。私がいなければ、両親の仲が治るかなとでも思った。

ある意味、両親にすごく心配させた。反面、僕の生活の環境を見せられて、安心させられる面がある。

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園山先生と柯先輩は何度も足を運んで、病院に僕の病状を聞きに行ったこと、ありがたく思う
園山先生は私が単位無事にとれたと聞いたとたん、とてもうれしかった。何度も「すごい!」とおっしゃった。後で、私のパソコンの画面で確認したとき、「すごい、第三の奇跡」とおっしゃって、私はとても感動だった。泣きそうだった。
こんなに私のことを心配してくださるなんて、とても感動だった、「ありがとうございます」を何度も繰り返して言った。
柯先輩も僕の研究のことを病院で相談して、慰めてくださった。なんてやさしい人。
崎山先輩も僕の研究を助けてくださって、卒業出来るようにしてくださった。ありがとうございます!
根岸先輩と桝谷お姉さん、何度も病院に来てくださって、ありがとうございます!桝谷お姉さんが大好きな本を何冊も持ってきて、根岸先輩が葉書を書いてくださった。本当に本心から書いてた話なので、読んでいるうちに思わず笑ったり、泣きそうになったりした。

研究室の人はともかく、他の人たちも見舞いに来てくださって、ありがとう。
わざわざ京都から来た中学時代の友達張、ありがとう!
わざわざ横浜から来た中学時代の同級生、高校時代の友達薛、ありがとう!
これからよろしくね!

千羽鶴を折ってくださった人たち、顔さえあったことがない人たち、ありがとうございます!

2008年3月1日土曜日

東京に行く理由

幸か不幸か、私は事故にあった。

事故にあったのは不幸ではあるが、今の私にとってはある意味よかったと思う。

慶応のMBA合格して、入学手続きをしてから起こったんだから、
そこに行く可能性が残された。
そして、工学部の授業以外の単位を全部前期に撮り終わったので、
卒業の可能性が残された。

体に骨折などなくて済んでよかった。 →卒業するのに発表が必要なのでみんなの前で立たなきゃいけない。
脳の傷はあるが、手術しなくて済んでよかった。 →手術したら、脳細胞が確実たくさん死んでしまう。それに、頭の上に骨が弱いところが出ると…
事故の相手の車が保険に入ってよかった。 →わざとじゃないのに、保険でなければ、その様な事故をしたら、大変だよね。
今の状況では、東京に行くことができるようになったような気がする。東京で、いろんな出会いと、キャリアに有利なチャンスがあふれて、夢を実現するのに頑張れる。

そして、なぜ行くかといったら、今まで他の人が私の人生の方向を左右している気がしなくもない。今回はちゃんと私自分で下した決断だから、運動エネルギーが足りないってことはない。


僕にとって、今のタイミングが一番いいと思う。
4年生の最後だから、アルバイトなどもあまりできないし、社会活動もあまりたくさんができない。この半年、僕が自分に与えたタスクはたった一つ:「無事に卒業出来ること」。なので、入学手続きを終えたあと、すぐ卒業研究に集中したいことがまだ覚えている。

それから、事故が酷かったこともよかった。
些細な事故だったら、その時の記憶が残っているはずだ。その時のことを思い出して、後悔したり、痛さを覚えたり、精神的に追い込まれかねない。
僕の場合、ショックでその日の記憶が全然なくて、友達の話によると、たぶん山之上体育館で筋トレをやった後、2人の友達がその日僕のうちで待ち合わせをした約束があるそうで、山から家に帰る途中だと思う。
ある意味、記憶がないことが私を救ってくれた。
血が沢山出て、痛かったと思う。目が覚めてから、全然覚えていないから、夢の中にいるみたい。なぜ病院にいるのか、なぜ両親がそばにいるのか、なぜ学校の先生、うちの大家さん、友達たち、みんなが僕を見てくるのか、なぜ私の右半身が動けないのか、なぜ私が喋ろうとしても声が出ないのか…全然疑問が持ていなかった。
全く子供が成長してきたように、生まれる時に自分がなぜ病院にいるのかについて問わないのと同じようだ。


最近お母さんが、「この半年、嵐のようだったね」という。
僕がなぜ?と聞いたら、「雨もあったし、風もあったし、なんでも経験したね」。
補充に「夢にも想像できないことをね」。
まあ、人生はなんでも一回経験しないといけないというじゃない?
これで、みんなが「大難不死、必有後福」と言ってくれる。全く実感がないけどね、覚えていないから。

そして、社会を経験した。もっと適切な表現は、日本の社会の特性を身を沁みて感じられた。
助け合い、人間の温かさ、友情の温もり、お母さんの愛、お父さんの愛、この事故が起こらなければ、たぶん一生これをこんなに深く感じられないだろう。

この事故で、私の運が良かったと思う。
頭を強く打って、全身の血を入れ替えた以上の血液を輸血したにもかかわらず、こんな元気になって、日記を書くことができるなんて。
両親も、最初私の情報を聞いたら、ショックで立っても座ってもいられない。日本に来た時、私を見たら信じられなくてまたショックを受け、ご飯も食べられなくて夜寝られないまま、一か月過ぎたらしい。お母さん一回僕が意識回復した後に風邪をひいた。
でも、ちゃんと今のように元気になって、倒ることがなくて済んで良かった。

私が死ななくてよかったと思うのは、こんなにたくさんの人が僕のことを心配してくれて、私が回復につれて、だんだん明るくなる、本心からうれしく思う人たちに何でも出来なくてそのまま死んでしまうことが悔しいからだ。

実際僕はお母さんを日本に呼ぼうと思った。
なかなか仕事があって、そんなに遠くに行けないというお母さんは、これで初めての出国の経験になった。あまりにもつらい経験だが、回復してお母さんをうれしく出来て、良かったと思う。お母さんはいつも一人で何でも耐えて、我慢して生きてきた。これから幸せにしてあげられないことになったら、悔しく思う。


僕が出会った病院の先生、看護婦さんたちも素晴らしいことに神様に感謝している。
違う病院だったら、私が死んでいたかもしれない。
違う病院の先生だったら、同じく私が死んでいたかもしれない。

今度の事故で、私は世の中を以前よりも、はっきりと見える気がする。
世の中の人の間のつながり、世の中の愛情、世の中の憎しみ、世の中のチャンスなどが今度の事故があるこそ、深く考えるチャンスが与えられた。

そして、私がこんなにたくさんの心配してくれる人、かわいそうと思ってくれる友達、助けてくれる先輩、友人がいるのが、すごく幸せに思う。

事故があってこそ、私はこんなにいい友達がいるのだと考えた。
事故があってこそ、私は今まで友達を作ってよかったと思った。
事故があってこそ、私はこれからもっといい友達を作って、助けてくれた人にも助けてあげたいと思う。


名古屋領事館の先生たちと名古屋大学の先生たちが私のことを心配してくれた。
このことで、人間がいつまでも希望を捨てちゃいけないと思った。だって、どんなに窮境に追い込まれても、必ず見方が存在して、助けあってやっていこう。

エキサイカイの宮崎先生に出会ったことにすごく感謝している。
日本のお母さんじゃなくて、日本のママと呼ぶほうが相応しいかな?
とても優しくて、私のことを心配してくださった。今度の事故がなければ、私が一生この出会いがなかったでしょう。運命的な出会いだと思う。
輝きだと思う。「ママ」とあったら、なぜかうれしい。何回も脳外科の診察室の外で静かに座っていた。私のことを思ってくれる人がドアの向こう側にいるとわかり、そこにいるだけで、落ち着いた。
私がやりたいことに本当に分かってくださって、卒業にも、進学にも、前向きな助言をしてくださった。
前一回、うちのお母さんと口ケンカしたとき、どうしようもないときに来てくださって、お母さんを慰めることができた。うちのお母さんも、宮崎先生が「他人をこんなに理解できることがすごい」と言った。

名大に研究室ごと東京農工大から引っ越してきた美宅先生にも感謝している。
こんなに素晴らしい先生と出会えて、それも指導教官になられたなんて、この人生に幸運だと思う。
ありがとうございます!
以前、授業を受けた時美宅先生がやさしいと思ったが、こんなに素晴らしい方だと思わなかった。
やはり、今度の事故によって、与えられたチャンスだと思うが、本当にいい人だ。
しかも、脳損傷の経験から私のことを考えてくださって、お忙しいのに助言と両親の説得に力を尽くしてくれた。もっと話し合ったら、私のことを一番わかってくれる人だと思った。