2007年3月21日水曜日

均衡ってなんだ?!-日本文化雑談

Balance、この素晴らしい単語の背後に一体ないが潜んでいるか?

暗闇に光、死に生き、絶望に希望、閉鎖に解放。
スタディキャンプの中で言えたのは、閉鎖系の思想が開放系の思想より、持続可能な開発を可能にする。
この世の中にそむくことができないことを信じて、基づいて生きていかなければいけない。

私自身は、閉鎖系ではなかった。
どうもその考え方が自然に思わない。

思想の根源を訪ねるのは必要があるかどうかはわからないが、あえてそれをやってみた。
スタディキャンプの中も、私のグループはもともとグローバル化と価値観の討論だったが、私は日本人の根底にある価値観が知りたかったので、その時も少し思想背後にあることを議論するベクトルとして働いてみた。

日本の歴史から見た日本人の中にある思想、これをはっきりしなければ、日本人の一億総中流社会、団体の協調性、新世代の幸せ感覚の欠如、団塊世代のこだわり、急変する社会思想、ニートと無気力、ルールと気持ち重視などを説明することができない。
私は今まで日本の社会を生きてきて、考えてきたと思うが、これでさえ日本の社会を十分理解できたとは言えない。
日本にあるユニークなものはありふれて、何が正しいかを追求することさえ無理のことになっている。


今日聞いたことにショックを受けた。
ジョは私のいい友達だ。社会知識が俺より十分豊かな人だと思う。医学を勉強していて、立派な人だ。

しかし今日、コからジョのアルバイトの話を聞いた。彼がアルバイトの時によく「さぼる」、というのは、いつもコンビニの仕事の中の一番大変なことをしていた。それが終わったら、すぐ店の後ろにくつろいで、雑誌を見ていた。コとほかのその店でアルバイトをしている友達も休憩などは取るが、何も不適当は感じないが、なぜかジョが休んでいるとはっきり「サボっている」とわかる。

一度、廃棄(凹んだり、傷ついたりしたカンの)コーヒーが誰かにのまれて、空き缶がそのまま店の裏に置いてあった。
店長のお母さんが来て、それを見た。「誰がこれを飲んだ?」と。しかし、誰も認めない。
店長がいろいろ疑って、コにも聞いた、「お前か?」。コが「違いますよ」と言ったら、「私も違うと思った」と返事してくれた。
しかし、ジョの場合は大分違った。店長が絶対彼だと思い、脅かしたりして、彼を認めさせようとした。
彼が認めなかったから、そのことがすっきりしないまま終わってしまった。

一定の時間がたってのある日。
店長が店に入って、冷蔵庫に入っているべきの肉まんが外に置いてあった。
店長が怒って、「なぜここにあるんだ?!」と。ジョがすぐ「私じゃない」と言い返した。
もう一人、日本人と一緒にアルバイトをしていた。その日本人がもう既に帰った。ジョが彼と仕事の仕分けをしたらしい。ジョがそれを出す仕事で、その日本人が冷蔵庫に入れる仕事をするはずだった。
この言い訳を聞いて、店長が怒らないはずはない。どこまで仕事を分けてやるんだ。
すでに喧嘩に発展して、ジョが店長の白目に耐えきれなくて、思いっきり叫び始めた。この前のコーヒーの事件のことも、そのほかのいろいろなことを店長に叫んでいた。泣きながらね。


私はジョの気持ちがわからないことがない。
なぜ一人だけいじめをして、些細なミスで大げさに取り上げるの?中国人だからやってんじゃないの?

という考え方は私の中にないわけでもない。私も最初日本に来た時にアルバイトでいろいろ挫折を経験したわけだ。
なぜそんなに挫折するかというと、日本と中国の考え方が違うのだ。

中国の平等と日本の平等が違う。
中国の個人主義と日本の個人主義が違う。

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人間がほかの動物にできないことができる、一番顕著なものは、言葉だ。
皮肉なことに、言葉自体、人間が十分にマスターしていない。抽象的な言葉に、いう人によって、いう場合によって意味が全然違う。具体的な言葉でさえ、時間の変化につれて、日々変化している。同じことを経験していても、人によって違うようにとらえている。


小舅の話によれば、一人のセールスマンが彼の家に訪ねてきた。
仲がいいから、いろいろ話をしたら、6時間も過ぎてしまいました。小舅が2度トイレに行った。しかしそのセールスマンが一度もトイレに行かなかった。

これがいい話か?どうなんだろう、と思ってしまう。
なぜそんなに我慢しているか、彼にしかわからないが、おそらく話をするうちに勝手な行動になるでしょう。相手を尊敬するのは当たり前のことだが、トイレにいかないことがそれを表明しているの?両立ができないだろうか?

同じ話で、残業がしたくなければ、帰られるのか?課長が帰らないので、帰られない。
本当にそうでしょうか?
みんなに、自分の真面目で、団体に貢献している姿を見せたいじゃないでしょうか?

日本では、自分で自分のことを世話する習慣がない。
団体が必ず見てくれるので、団体のために頑張ればいい。「勝手なこと」が絶対許されない。たとえ、それが団体のためになっているとしても。小辻さんの北九州市の話は聞いた。ほかのグループと交流して、自分のグループをより活発化させようとすることも、他人に内緒にしなければいけなかった。

逆の話を言うと、みんなが「勝手に行動するやつ」を見張っている。
その人がいなければ、「俺ら最高」の団体になるが、いるとしたら、まず変えようと努力する、出来なかったら、どうしてもその人を追い出さなければいけない。団体の一致性のために。
仕事ができない人に手を貸して、仕事のできるやつに、出る杭は打たれるぞ、と警告する。

だから、日本のホームレスが糖尿病になる。
だから、日本にリーダが少ない。
だから、日本の若者は新しい人生を求めようとはしない。(個性が発揮できないわけではなくて、目的という言葉が知らないわけだ。)
だから、日本で一番いい働き方は、何も考えずにみんなの後ろについていくことだ。

我々「人間の価値観とグローバル化」グループの「個人主義」、「全体主義」の定義が、個人で選べる権利を持っているか、いないかによって定義されている。私が討論の時に、優先順位の一位に、個人を置くか、団体を置くかと説明したが、違いました。やはり団体を選ぶこと自体が、選ぶ行動を行ったため、個人主義になってしまう。

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ジョのアルバイトの話に戻ると、それが起こるのが自然の流れでも言えよう。

ジョが中国の固定観念を持っている。馬鹿な働き方はやめたほうがいい、自分のために何ができるかを考えたほうがいい。
だまされるなよ、世間が厳しいから。誰がお前のことを利用しようとしているか知らないよ。

防衛的な環境で育てられた彼にとって、団体に身を任せることが到底できないことなのだ。
それをしなくて、ただひたすら働いても、誰からも悪い評価が来ないはずだが、彼にはそれも難しいことだった。


中国の平等は、機会平等だ。誰でも起点がおなじ。日本は結果平等で、終わるところがおなじでなきゃ困る。

中国で、才能のある人は、短時間で仕事を終えたら、自由に行動してもだれにでも悪口は言われない。
同じ量の仕事を、その人が早くできるのに、お前がぐずぐずやって、遊べなかったのはお前自分の責任だ!という。

日本で、才能のある人でも、自分の仕事をしたら、他のできない人の世話をしなければいけない。
その行動も、ひそかにではないけど、外に出さないほうがいい。なぜかというと、一人だけきれていると表現したら、逆に悪い評価をもらってしまう。こつこつと頑張って、ひとつのミスも犯せない人が一番いい人と評価される。

きっと、ジョが大変な仕事をしたら、リラックスしてもいいと思った。しかし働かないと、日本にある平等が成り立たないわけだ。

団体主義なので、他の人の目を見なければいけない。

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日本では、「迷惑」という言葉をよく口にする。

「周りに迷惑をかけたくないから、ボケになりたくない」のは、日本のお年寄りたちの本音である。
「自分の行動の自由の阻害になるから、ボケになりたくない」というアメリカの年寄の考え方が、あまりにも日本と対称的だった。

「迷惑」は相手の考え次第「迷惑」であったり、「迷惑」でなくなったりする。
日本の「気持ち」重視であることが、私のような「結果」重視の人間にとって大変なことだった。

自分の幸せをいつでも探っても、相手にならない、いつでも変わる「気持ち」にたよることによって、果たして幸せが手に入るのか?

日本では、何か過ちがあれば、とにかく謝ればいいのである。
そうでなければ、団体に「気持ち」を表していないわけだ。

またくどい話に戻ると、ジョが肉まんの箱が冷蔵庫の外にあることを気付いたら、「私じゃない」ではなく、「ごめんなさい!」と大きく誤ったとしたら、店長がどう行動するでしょう。たぶん何の事もないように、ジョがそんなにいじめられた気分になっていなかったはずだね。

団体への配属感があれば、そんなに責任を分けて仕事をすることがなかっただろう。
こんな単純な日本の「ルール」がわからなくて、ジョが損をした。彼が大喧嘩したあと、「こんな店で働きたくない!」と宣言した。そしたら、店長が「ちょうどいい、あなたに働いてもらいたくない。」

どれほど頭が切れても、「場を読む」能力がなければ、立派な日本人にはなれない。
ほかの人の迷惑であることを知っていてもあえてやる人は、日本の社会に淘汰される。(ホリエ?)

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こんな時に、日本が「個人主義」だなんて、聞きたくない。

本当の個人主義だったら、日本で生きていけないくらい辛いはずだ。
団体に配慮をしない人は、いろんなところで挫折するから。

そんな人は、アメリカに行けばいい。
自分が「個人主義」と言っている人に考えてほしい。日本人であることを考えずに、アメリカ人などになることができるか?
私は、自分が中国人であることに束縛されたくない。中国に色んないいことがあるが、いろんな意味で悪い面もたくさんある。

貧困がみんなの目にうろこを張ってしまった。
物質的にも、精神的にも。
私は自分が中国人であることを誇りに思うが、いかにその中のいい面を取り出して、悪い面も認識できるように努力している。


過去がなしで今の私に成り立たないけど、過去の負担に圧倒されて、今からの人生を台無しにすることこそ、やってはいけないことだ。

「日本にいるなら、一回日本人になりきっていきろう」小舅の言葉だ。
感心した。
日本人の気持ちを理解せずに日本に何年居ても無駄である。日本で成功するはまず無理である。

私はいつも言う。私はむしろ日本の社会にもっと親しみを感じる。
19歳に中国を出た私は、中国社会に関する知識はほぼない。
このとき、日本の社会が私を洗脳した。
中国のような、民主もない、信頼感もない社会で生きるなんて、出来るもんか。なんて思った。

決して、悪いことではない。
自分の国をもっと正確に認識できただけだ。

小舅の話によって、中国人が洗脳されないのが得意である。
私は同意する。これはなかなかの能力だと思う。
日本は一方、ある時期に一斉に価値観の転換が求められる。

もともと「お国のために」が人生の意義だった時代から、急に「クリエーティブ」、「個性」を求めようとする。
間にもちろん、経済の成長(会社のために)、地域社会の繁栄(コミュニティのために)といったスローガンのような言葉がある。
日本が変なところで、人民がスローガンで簡単にコントロールされて、すぐその気になる。
まあ、これがなければ、高度成長期を迎えることがなかっただろう。

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私はいつでも、どれが「いい」、どれが「わるい」かをなるべく口にしないようにしている。
すべてのことが、「いい」と「悪い」で片づけられるものではない。我々はみんな、色眼鏡をかけている。
固有の価値観念で、他の価値観を評価することが、正確な評価が得られないのである。

日本の場合も、団体主義の優れた点がいっぱいある。
言わなくても通じることを大切にする民族だから。

しかし、美徳を行っているときに、なぜそれをしているかが分からなければ、本当にそれが続くのだろうか?
社会に要求されるならやる、社会に要求されないときはやらない。
これは、「本音」と「建前」の基礎ではないだろうか?

いつも、「個人」と「社会」が求めることが違っていてもいいでしょうか?
日本人の強さが、あいまいであっても、楽しく生きていけるところだ。
私なら、違和感を感じて、どっちかを変えようとしたくてならないだろう。

それが、日本人の幸せだと思う人もいる。
価値観が当然違うと考える人もいる。しかも、それが、OPEN-FORUM議論の一番強いチーム、先生たちのほうの論点だった。
それを、一番論理的な考え方だと思った。

内在な感情をずっと出さなくて、変態になり、ひきこもりになり、自殺になり、無気力になっているではないでしょうか?
普通の人でも、ストレスがたまって、社会問題として取り上げている国が日本のほかに珍しい。

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「目的意識」、「自主自立」を強調すれば、団体主義が成り立たなくなる時がある。

「クリエーティブ」を求めたら、「同調すること」を放棄すると同じ事だ。

「国際競争力」と「みんな平等」が同時に満たされることがないことも同然だ。

なぜ日本人がこれらを認めることができないだろう?
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日本人には、バランス(均衡)という言葉を大事にしている。
中国もそうだ。

何でもいきすぎも良くない、いかないことも良くない。中間を求めたほうが人生の哲学となっている。(中庸って言葉だ)
儒教は上層階級の思想指針となっていた。上層階級がなぜ中庸か私はよくわからない。
すぐれることを恐れていたら、どうやってリーダができるのだ?

私がリーダになりたいと言って、大久保さんが最初に感心してくれた。
しかし、私が「個人主義」の立場を言い張ったら、彼が、「こんなリーダがほしくない」と言っていた。
最後別れる時に、「連絡くださいね」と言っても、彼は手の中にある名刺をくれないし、あやふやな態度をとっていた。
私は彼の気持ちがよくわからなかった。

まあ。個人を団体より大きく考える人なら、日本でリーダになれるわけがないと考える人が少なくないだろう。
私はその気持ちが理解できる。

リーダが団体の未来を一生懸命考えて、そのために自分の力を尽くさなければいけない。

これは本当に日本的な考え方だ。

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日本の言葉には、いろいろ「気持ち」を表す言葉が混ざっている。
「一生懸命」だとか、「努力」だとか、「悩む」だとか、「怒る」だとか。

努力と簡単にその人のやっていることを片付ける傾向がとても強い。
その人がやった内容が逆に大切ではなくなる。
その人なりに、努力すればいいと。結果がどうなったって、精一杯頑張ったから。と

私から考えたら、馬鹿な人が一生頑張っても、頭がいい人の一年の成果と比べて、少ない可能性が十分にある。
ビル・ゲイツのようなひとがお金を集めて、そして貧しい人に寄付することと、ホームレスが自分の貧困を解決したことを比べればわかることだ。

がんばったら、何をしてもいいの?
サークルのパーティーで何もしなくて叱られたインドネシアの女性がいる。「何かやってよ」と。
やること自体が重視されている。

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さ、話がそれたが、均衡の話に戻ろう。

戦争と疫病が、世界の均衡を保つことに貢献していると考えるか?
持続可能な開発が出来なかったら、人間が絶滅して、世界がまた単細胞から発展して、もう一度繁栄のサイクルになると思うのか?
人間が死んでいたら、いつか次の人生にリサイクルされると思っているのか?
暗闇がなければ、光の意味がないと思うのか?

確かに、醜いことも、きれいといえるところがいっぱいある。
芸術の視点から見れば、思想を形にすれば、何でも芸術的だ。
言い方を変えて、醜いことがあるこそ、きれいなことが大事になる、ってことも言えよう。


しかし、世界のバランスを大事にするなら、光も肯定せねばいけないし、暗闇も肯定しなければいけない。
これは、結果平等主義の日本に合わないじゃないかと思う。
みんなが同じだったらいいという考え方が、世界の均衡を崩すベクトルではないでしょうか?

自然界のバランスのとり方が、生まれると死ぬのバランスである。
生きていく能力が備えなければ、なぜ生きていくことができるの?
一方、優れた能力を持っているなら、なぜそれを生かすことができるの?
日本の中流社会思想はこの二つの分類の人々を亡くした。バランスはどこから取るの?

「ゲト戦記」を見たら、日本の社会のバランスは取れていないことが明らかである。
中国が格差が激しい社会である。
生きることが保障されない社会で生きているのが怖い、いやだという人がいる。
簡単に保障されたので、若者の意欲が湧かないではないでしょうか?

若者の団体帰属意識も要求するし、自立の意識も要求すること自体が矛盾している。
混乱させる教育である。
この間もバランスを取ろうという話なら、私は一緒にしたい。
そもそも、相反することの間ってないわけだ。

たとえば、水と火の間の状態、生と死の間の状態。

袁葉さんの話の中に、日本の文化が「間」の文化と言っている、私は同意する。
何でも間(あいだ)、間(ま)にする。

生きているのに、死んでいる。これが今の若者の精神状態ではないでしょうか?
個人を求めたいが、団体の要求に従わなければいけない。

生活上、いつも団体に、意識決定を任せているのに、「投票の人が足りない」と言っている人に考えてほしい。

民主主義がアメリカから日本に渡されたもの。
その中に、個人レベルの意識決定が含まれている。選択の権利が個人主義の源である。

資本主義もそうである。
資本が個人のもので、なくしても、個人の自己責任である。社会に保障を求めること自体が、資本主義に反するものだ。

この中で、日本の団体主義がうまくやれるかの話である。
逆にいえば、日本で、アメリカの制度がいけるかが問うべきである。

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グローバル化世界で、日本の役割が欠かせない。

しかし、日本は矛盾の中で、価値観を統一できるかが問題である。
そのまま行くことが日本の唯一の道であると信じている人に忠告したい。与えたれたものすべてを飲み込むのじゃなくて、自分の選択権を使って、自分の人生を生きろ!

ひとりの中で価値観がいくつもあることが聞いたこともない。
価値観が、その人の信条であり、イスラム教徒だったら、キリストを信じることができない;平和を愛すれば、戦争を起こすことができないと同じである。

日本は独自の視点でアメリカの観点をもう一度考え直す機会を与えてくれる。

たとえば、個人主義なり、軍事産業立国なり、過大消費なり、過近代化(命の耐える速度)なり、反テロ戦争などいろいろ間違っているかもしれないことを指摘してくれる。
憲法9条のある国が平和議題の会議の議長国として勤めてくれるのが心強い。
残念なことに、日本はこういうところを失っていくばかりである。

世話と迷惑、配慮と遠慮、日本は人づきあいの中で、社会のありがたさを見出す。
中国もかつてそうだったが、いまや無遠慮の世間になった。

日本が自分の文化をなくしたら本当にもったいないことだ。
いつか「この世に本当の日本料理が無くなった」と言ったら、悲しいだろう。
素晴らしいことを維持することも世界の均衡に貢献できる。

Balanceの背後に何があるだろう。
日本は、均衡と混乱の間にバランスを探しているではないでしょうか?
そもそも、混乱をなくして、バランスのとれた社会にしませんか?

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